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横浜地方裁判所小田原支部 昭和49年(ワ)70号 判決

原告

古谷時三

原告

古谷ムメ

右両名訴訟代理人

青木逸郎

被告

高橋光

右訴訟代理人

高田利広

小海正勝

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一、請求の趣旨

1  被告は原告古谷時三(以下、原告時三という。)に対し金一、二三〇万七、二七四円、原告古谷ムメ(以下、原告ムメという。)に対し金一、〇三四万五、五五六円及びこれらに対する昭和四九年四月九日より各完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。との判決ならびに仮執行の宣言。

二、請求の趣旨に対する答弁

主文同旨の判決。〈以下、事実、省略〉

理由

一久夫が昭和四八年二月五日午前二時二〇分東京女子医科大学病院で死亡したことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、原告時三は久夫の実父、原告ムメは久夫の実母で、いずれも久夫の法定相続人であることが認められ、〈証拠〉を総合すると、久夫はガス壊疽を原因とする中毒性シヨツクにより死亡したものであることが認められ、右認定に反する証拠は存しない。

二、久夫が昭和四七年三月国立山梨大学工学部応用化学科を卒業し、卒業と同時に訴外会社に就職し、製造技術部技術課に配属され、栃木県大田原市内所在の同社の寮に居住し、同県那須郡西那須野町所在の同社那須工場に勤務していたこと、久夫は昭和四八年二月二日頭痛、悪感を訴え、体温も摂氏三八度四分あつたため、午後六時三〇分ころ同県大田原市内で開業する被告医師の往診を受けたこと、被告は久夫を診察のうえ、同人の病状を上気道感染と診断し、左上外側皮下にグレラン二CCの、臀部左大臀筋にクロマイゾル0.5グラムの各注射、肘静脈に二〇パーセントブドー糖二〇CC及びアミノバール二CCを混合した静脈注射の施療をなしたこと、翌三日も久夫は、左上外側の前日注射した部位が腫れ、圧痛を感じ、発熱もあつたので、午後五時ころ再び被告の往診を受けたこと、その際久夫は、前日の治療で食欲も出てきて快方に向つているが、未だ悪感が残つている旨訴えたため、被告は久夫の右上膊外側筋にクロマイゾル0.5グラムの注射と、二〇パーセントブドー糖二〇CC及びアミノバール二CCを混合した静脈注射をしたこと、久夫において、左上膊外側部の前日注射した個所が痛むと訴えたのに対し、被告はグレランを注射した後はその個所が痛むものだと説明したうえ触診したところ、久夫は圧痛を訴え、少し腫れていたため、被告において湿布薬を与えるから来院するよう指示したこと、翌四日午前二時ころ、久夫が左胸部の激痛を主に訴えて救急車で被告医院に入院したこと、及びその際の久夫の左上外側部は被告が前日往診した際よりも更に腫れ、肘関節付近までその腫張が及んだ状態であつたことは、いずれも当事者間に争いがない。

2 久夫が被告医院に入院した直後、久夫は左胸部の激痛を訴えていたこと及び久夫の左上外側部の腫張が肘関節付近まで及んできたことが当事者間に争いのないこと前記のとおりであるが、〈証拠〉を総合すると、その際久夫は、被告の問診に対して、以前にも似たような症状になつたことがあり、狭心症と診断された旨答えたこともあつて、被告としても狭心症の疑いがあると考え、左上腕の局部を湿布するとともに鎮痛剤ペンタヂン一CCを右上膊皮下に注射したうえ、狭心症に有効なニトロール舌下錠を投与したこと、しかし、その効果もないうえ、心電図にも異常のないことが判明したが、白血球数は一万六、八〇〇で、通常の健康体のそれよりも多く、炎症している部位のあることが認められたこと、昭和四八年二月四日午前八時一〇分ころ、チアノーゼが現われているとの看護婦の報告により被告が久夫を診察したところ、脈が少し弱く顔貌はやつれた様子で、最高血圧が一一〇ミリメ一トル、最低血圧が七〇ミリメートルであつたこと、そのため被告は五パーセントキシリトール五〇〇CCの点滴注射及びビタガンフア一CC注射各二本を打つとともに、酸素吸入を開始したこと、一方、久夫は左上腕の激痛を訴えるに至り、被告は前記の白血球数から左上腕部が化膿していると考えたことが認められ、右認定に反する証拠は存しない。

3 そのため、被告において局部麻酔を施したうえ久夫の左上腕部二個所を切開し排膿を試みたが化膿していなかつたものの、疼痛も除去しなかつたこと、被告において大田原日赤病院、済生会宇都官病院に久夫の入院診療を依頼したが、いずれも断われたこと、及び被告が東京で開業する皆川博士と相談のうえ東京女子医科大学病院への入院手続を執つたことは、いずれも当事者間に争いがなく、〈証拠〉を総合すると、同日午後九時ころ被告が右皆川博士に久夫の病状を報告して病名、治療方法等を相談したところ、同博士から自然気胸かも知れないので、胸部をレントゲンで透視してみるよう指示され、被告において右方法により自然気胸か否かを確かめたところ、自然気胸でないことが判明したこと、そのため再び皆川博士と連絡のうえ前記のように東京女子医科大学病院への入院手続を執つたものであることが認められ、右認定に反する証拠は存しない。

4 そして、同日午前一〇時三〇分被告は久夫に附添つたうえ自動車にて被告医院を出発し、同日午後二時三〇分ころ東京女子医科大学病院に到着し、直ちに同大学附属日本心臓血圧研究所の橋本明政博士による診療が開始されたことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉を総合すると、被告は被告医院出発後東京女子医科大学病院到着までの間も、久夫に対して五パーセントキシリトールに強心剤や血圧上昇剤を加えた点滴静脈注射を施しながら搬送したことが認められ、右認定に反する証拠は存しない。

5 〈証拠〉を総合すると、久夫は東京女子医科大学附属日本心臓血圧研究所に入院後、同日午後三時三〇分ころ心臓外科緊急管理室(I・C・U)において、同大学病院訴外佐藤禎二医師の担当で診療を受けたこと、久夫の右入院時の状態は、意識は明確であつたものの、顔色は不良で四肢は冷たく、血圧が下降し、脈搏も弱く、呼吸も不規則であつたため、同医師は気管にチユーブを挿入して人工呼吸を行なう一方、血圧上昇剤、強心剤を投与するとともに、左上腕部の腫張が強いため抗生物質、腫張緩和剤を投与したこと、同医師は久夫を診断した当初の時点では同人の病名を血栓性静脈炎ではないかと考えていたが、同日午後六時三〇分ころまでには血栓注静脈炎、ガス壊疽、グレランによる異常反応のいずれかではないかと考えるに至つたが、未だそのいずれとも断定しえない状態であつたこと、そして、そのころには治療によつて久夫の呼吸も比較的平常に戻り、血圧も上昇し、病状も落ち着いてきたため、気管に挿入したチユーブを抜き、家族とも面会することができるほどになつたものの、排尿がなく、急性腎不全の状態が継続していたこと、その間左上腕、左頸部、左胸部の腫張は拡大し、左上腕部には水疱の形成が多く、水疱を注射器で突くと茶褐色の血性の液体が滲出してきたことから、同医師は同日午後八時ころ久夫の病名をガス壊疽とほぼ断定したこと、同医師はガス壊疽の進行を止めるため患部の皮膚を切開する必要があると考え、同日午後一〇時三〇分他の患者への感染を防止するため久夫を緊急管理室から重症患者用の部屋に移したうえで、左上腕、左頸部、左胸部の一二個所を切開したところ、皮下から筋膜(一部は筋肉)に至るまで壊死状態で、ガスが滲出してきたこと、しかし、久夫の出血が多量であるうえ、急性腎不全の状態が続き、昏睡状態のまま呼吸不全を併発して心臓が停止し、人工蘇生術を施したものの、その効果がなく死亡したこと、及び久夫の死因は、ガス壊疸菌による細胞内毒素中毒によるシヨツク死であることが認められ、右認定に反する証拠は存しない。そして、久夫が死亡したのは昭和四八年二月五日午前二時二〇分であることが当事者間に争いのないことは、前記のとおりである。

6 久夫死亡後、同人の遺体を解剖したことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉を総合すると、久夫の解剖は死後約七時間三〇分を経過した同日午前九時五〇分ころから東京女子歯科大学第二病理学教室の訴外梶田教授の指導の下で訴外武村民子医師により行なわれたが、久夫の左上腕を中心に左前腕、肩、頸部、左胸部にわたり皮下組織にガスが貯溜し、筋組織の壊死があり、同時に皮下組織の血性漿液が浸淫し、皮下脂肪炎を伴つた炎症が存在し、左上腕部の組織についてグラム染色したところ、グラム染色に陽性の (ママ)菌が発見され、内臓については右細菌の内毒素によるシヨツクのため腫張または浮腫が見られ、特に腎臓においてそれが著しく、そのために急性腎不全を起したため死亡するに至つたことが判明したこと、また解剖の際、久夫の左上腕から採取した静脈血、頸部の付根、左大腿筋部、左上腕の被告のなした注射部位からそれぞれ採取した血性滲出液を培養した結果、左上腕の注射部位から採取した血性滲出液のみからガス壊死の起炎菌であり、グラム陽性 (ママ)菌のウエルシ菌が検出されたこと、右解剖結果の報告書(甲第一一号証)には、久夫の体には病巣に対する多数の皮膚切開創が存在した旨記載されているが、それ以外の切創等の傷は記載されていないことが認められ、右認定に反する証拠は存しない。

三〈証拠〉を総合すると、ガス壊疽はガス壊疽菌と総称される嫌気性菌と、醸膿菌との混合感染により発病すること、ガス壊疽菌と総称されるものには、本件の起炎菌であるウエルシ菌の外、セプチクス菌、ノービ菌等があること、ガス壊疽菌は、嫌気性の芽胞形成 (ママ)菌で、土中、糞便中など広く外界に芽胞として存在する外、ウエルシ菌は大腸菌とともに人及び動物の腸管内に最も広く分布する細菌であること、従つて、戦傷や不慮の外傷等の不潔創から体内に侵入することが多く、創外口の小さいものの方が発病しやすいが、一般にその毒力は弱く、多数菌の汚染、異物との共存、組織破壊が高度で血流の不十分になつた創傷、特に筋損傷などの条件のない限り病原性とはならないこと、受傷からガス壊疽発症までの時間は、早い場合は六時間位、平均五六時間で、二ないし三日位のことが多いこと、ガス壊疽の症状としては、疼痛が最も早く現われて次第に増強する一方、血圧は下降し、摂氏四〇度台の発熱もまれではなく、全身虚脱や意識が冒され、局所の皮膚は初期には白く、光沢があつて緊張しているが、腫張が進むとともに、ブロンズ色、暗赤色を呈し、創からは悪臭のある褐色の分泌物を排出し、創周囲組織は壊死に陥り、創の周囲は雪を握るような感じの握雪感が触れるようになつてガスの存在が証明されるようになるとともに、発症後二ないし四時間でレントゲン写真によつても鳥羽根様のガス像が認められ、ガスの存在が証明されるに至ること、及びガス壊疽の治療方法としては、従来は早期切断等の手術療法、抗毒素血清療法、ペニシリンを主とする抗生物質療法が行なわれてきたが、最近では抗毒素血清療法の有効性について疑問が指摘される一方、高圧酸素治療室を利用する高圧酸素療法が非常に有効であるとされ、これらの治療法をその症状等によつて組合せて治療にあたつていることが認められ、右認定に反する証拠は存しない。

四以上の、久夫の発病より死亡に至るまでの経過、被告医院及び東京女子医科大学病院に於ける診療経過、解剖の結果、ガス壊疽の特微等を総合すると、久夫の左上腕部から発見されたガス壊疽の起炎菌たるウエルシ菌は、被告が昭和四八年二月二日の初診時に久夫の左上膊外側皮下に施したグレランの注射自体から、もしくはその注射痕から侵入したものであると推認する外はない。すなわち、被告が右の注射をしなければ、ウエルシ菌が久夫の左上腕部に侵入しなかつたであろうと言うことは、動かし得ないところであると言わねばならない。

五そこでウエルシ菌の久夫の体内への侵入経路について判断する。

1  被告が久夫にグレランの皮下注射をした際に使用した注射器は、石油ストーブの上に乗せた鍋で煮沸消毒したことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉を総合すると、右注射器の消毒時間は約一時間であつたこと、被告が往診の際に注射器を入れる往診ケース(乙第四号証)はシンメルブツシユ煮沸消毒器(乙第五、第六号証)に往診ケースの蓋を開けたままの状態で入れて煮沸消毒をしていたこと、そして被告が昭和四八年二月二日久夫の左上膊外側皮下にグレラン二CCを注射するに使用した注射器及び往診ケースも同様の方法で消毒したこと、しかし、本件ガス壊疽の原因となつたウエルシ菌の芽胞のうち、特に熱に対して強いものは、摂氏一〇〇度の温度では、一五分間で六〇パーセント、三〇分間で二七パーセント、六〇分間で一パーセント、一〇〇分間で0.1パーセント、一五〇分間で0.001パーセントの各生存率であり、摂氏九五度の温度では、六〇分間で五〇パーセント、一〇〇分間で三〇パーセント、一五〇分間で二一パーセントの各生存率であつて、同一時間においては温度が低い程その生存率が高いことが認められ、右認定に反する証拠は存しない。そして、右認定事実を総合すると、被告の行なつた消毒方法ではウエルシ菌が完全に死滅せず、注射器及び往診ケース等の注射器具に付着したまま残存し、注射によつて久夫の皮下組織に入つた可能性もあることが推認できる。

2  〈証拠〉を総合すると、人体の皮膚表面、毛のう、汗腺もしくはそれらの皮下組織中には細菌が常在し、皮下組織中の常在菌が汗腺等から皮膚表面に出てくること、昭和四八年二月二日被告が風邪気味の久夫を往診して同人の左上膊外側皮下にグレラン二CCの皮下注射をするにあたり、被告は、往診のうえの診療であり、且つ久夫の居住していた寮が独身寮でお手拭きも出されなかつたこともあつて、清潔の面には十分留意し、注射前に自己の手指を消毒用アルコールに浸した脱指綿で拭いた外、別の消毒用アルコールに浸した脱指綿で久夫の左上膊部を拭き、前記皮下注射をしたこと、そして、注射針を抜いたのち、消毒用アルコールに浸した脱指綿を右注射部位にあてて揉んだこと、然し、消毒用アルコールに浸した脱指綿の殺菌力は弱く、あくまでも消毒であり、滅菌の効果が薄いので、右脱指綿で注射部位の皮膚表面を拭いても皮膚表面に付着している細菌が死滅するとは必ずしも言えないことが認められ、右認定に反する証拠は存しない。そして、右認定の事実を総合すると、被告が昭和四八年二月二日久夫の左上膊外側にグレラン皮下注射をした際に、被告の手指もしくは久夫自身の皮膚に付着していたウエルシ菌が、消毒用アルコールに浸した脱指綿で拭いただけでは死滅しないで残り、それが注射する際に注射針によつてウエルシ菌が皮下組織に押し込められた可能性もあることが推認される。

3  〈証拠〉を総合すると、人体を切開した場合、その創口が完全に塞がるには普通の切創でも約二週間を要すること、久夫が当時居住していた会社の寮は独身寮で、寮の各居室はその居住者において清掃し、洗濯も各人で行つていたこと、そのために久夫の夜具も被告の眼から見て汚れていたこと、被告が久夫の左上膊外側にグレラン皮下注射をした際に、被告は久夫に対しこの注射は注射した個所が後で痛くなることがあるのでよく揉むように指示したこと、そして、手指によるマツサージによつても注射痕からウエルシ菌が体内に侵入する可能性のあることが認められ、右認定に反する証拠は存しない。

4  〈証拠〉の中には、本件ウエルシ菌の侵入経路として、グレラン注射液もしくはそのアンプル内にウエルシ菌が存在していた可能性もある旨の記載もしくは供述があるが、〈証拠〉によれば、被告が久夫に注射したグレランは、訴外グレラン製薬株式会社が製造し、訴外武田薬品工業株式会社が販売する薬品で、被告が久夫に対して使用したものは薬事法四三条の検定に合格しているもので、被告自身も購入の際に検定合格証紙が貼られていることを確認して購入していること、注射液アンプルは、大量に製造した注射液を個別のアンプルに注入して製造するものであるから、注射液中にウエルシ菌が存在していれば、他にも同種症例の発生が考えられることが認められ、右認定に反する証拠は存しない。従つて、〈証拠〉中、グレラン注射液もしくはそのアンプル内にウエルシ菌が存在していた旨の記載もしくは供述部分は、右認定事実ならびに他にグレラン注射によつてガス壊疽が発生したとの主張立証のない本件においてはたやすく措信することができない。

5  〈証拠〉によれば、被告が久夫の左上膊外側皮下に行なつたグレラン注射は、注射後その部位が痛くなることがあること、及びグレランに含有されるアミノピリンは特異体質によるアレルギー反応として、麻疹、紫斑、皮膚壊死を生ずることがあり、これらの反応が注射局所に生じたときは、あらゆる感染症が誘発されやすくなることが認められ、右認定に反する証拠は存しない。

6  以上の事実ならびに前記認定の被告の診療行為と久夫の病状経過、ウエルシ菌の性質を総合すると、本件ウエルシ菌が久夫の体内に侵入した可能性のある経路としては、(一)、注射器具の消毒が不完全であつたため、注射器具に付着していたウエルシ菌が注射によつて久夫の左上腕部に侵入した経路、(二)、注射の際、久夫の消射部位の皮膚表面もしくは被告自身の手指の消毒が不完全であつたため、久夫の皮膚表面に付着していたウエルシ菌を注射針で押し入れた経路、(三)、注射後、久夫の手指、衣類、夜具等に付着していたウエルシ菌が注射部位のマツサージ等により注射痕より侵入した経路の三種、若しくはこれらが競合した場合の侵入経路が推認されるところであり、さらに、グレラン注射が、異常体質の場合に局所の、麻疹、紫斑、皮膚壊死等の反応を生ずる特性を有することが、本件のガス壊疽の発病に重要な関係をもつと推認することができる。然し、右の三種もしくはその競合による侵入経路のうち、いずれの経路によつてウエルシ菌が侵入したかは本件全証拠によるもこれを確定することができない。

六そこで、原告らの主張する被告の過失について判断する。

1 注射器具の消毒不良について

被告が昭和四八年二月二日、久夫の左上膊外側にグレランの皮下注射をした際に使用した注射器具の消毒方法、及びウエルシ菌の熱に対する抵抗力については前記のとおりであるが、〈証拠〉を総合すると、医療器具の消毒滅菌方法としては、煮沸消毒、乾熱滅菌、高圧蒸気滅菌、酸化エチレンガス滅菌等の方法があるが、被告医院と同規模で、被告が医院を開業する栃木県下の一般開業外科医院における注射器の消毒は、一〇ないし三〇分間の煮沸消毒によつて行なわれていること、消毒器具としては一般にシンメルブツシユ煮沸消毒器が使用されているが、シンメルブツシユ煮沸消毒器も高圧蒸気滅菌とは異なり、大気圧下で摂氏一〇〇度以上に上げることは不可能であること、被告が石油ストーブの上に乗せた鍋によつて行なつた煮沸消毒は、しばしば鍋の中に入れた注射器が割れるほど沸騰が激しく、被告の行なつていた鍋による煮沸消毒とシンメルブツシユ煮沸消毒器による煮沸消毒とではその効果に殆んど差異がないこと(尤も、両者の消毒効果に殆んど差異がないとしても、診療行為の場合、安易な鍋による消毒など決して奨励されるべき方法ではなく、医師としては、出来得る限り最新の医療器具を用いて消毒に万全の措置を講ずべきことは今更言う迄もない。)、ウエルシ菌の芽胞の熱に対する抵抗力は前記認定のとおりであるものの、このことは、一部の細菌学者が知つている程度で、東京女子医科大学細菌部でもウエルシ菌は煮沸消毒で死滅すると考えているなど、内外の医学書にもウエルシ菌の芽胞は摂氏一〇〇度で数分間もしくは二ないし一〇分間で死滅する旨記載されており、多くの医師の間では注射器具を煮沸して消毒すればウエルシ菌を含め殆んどの細菌が死滅するものと考えられていること、被告は、注射器につき、ストーブの上に乗せた鍋を利用した煮沸消毒を昭和四七年ころから行なつているが、これまでに事故がなかつたこと、被告が昭和四八年二月二日久夫を往診して診察した際、久夫と同じ寮に居住する訴外杉本正、同朽木正宣の両名も久夫と同様いずれも上気道感染のために被告の診療を受け、その際被告よりノバグレラン二CCの皮下注射を受けたが、両名とも特に注射後注射部位に異常のなかつたことが認められ、右認定に反する証拠は存しない。そして、以上の事実を総合すると、開業医たる被告が、鍋及びシンメルブツツ煮沸消毒器による注射器具の煮沸消毒によつて細菌が死滅すると考え、その方法をとつていたからといつて、それが直ちに被告の注射器具消毒の措置に過失があつたということはできない。そして、本件全証拠によるも他に被告の注射器具の消毒方法について過失があると認めるに足りる証拠は存しない。

2 注射前後における注射部位の消毒不良について

被告が久夫に注射をするに際し、注射部位に対してなした消毒方法及びその効果については前認定のとおりであるうえ、〈証拠〉を総合すると、近年の外科手術においては、手術野(手術の際、実際に直視下で、手術者が見える部分。)及び手術する医師の手指等を消毒する場合には、クロールヘキシジン、イソジン、ヨードホール等の薬剤が効果的であるものの、イソジン、ヨードホールはヨード製剤のため消毒後茶褐色になるうえ、ヨード過敏症の者には使用できない旨指摘されていること、被告が久夫を診療したのは往診してこれを行なつたもので、診療室で行なうような逆性石鹸で被告の手を洗うなどの方法をとることが期待できないなど、物的な面での制約があること、及び注射後注射部位に伴創膏を貼付することは、絆創膏の粘着面の消毒が行われておらず、雑菌が付着していることもあるので、却つて有害無益であることが認められ、右認定に反する証拠は存しない。そして、以上の事実ならびに医師が注射をなす場合の注射部位ならびに医師の手指の消毒には、アルコールに浸した脱指綿が一般に使用されていることが公知の事実とも言うべきであることを総合すると、たやすく、被告の久夫に対する注射前後における注射部位ならびに被告の手指の消毒に過失があつたということは出来ず、本件全証拠によるも他に右の点について被告の過失を認めるに足る証拠は存しない。

七してみると、本件ウエルシ菌が久夫の体内に侵入した可能性のある経路のうち、被告の責に帰すべき注射器具の消毒不良、及び注射前後における注射部位の消毒不良につき、被告の過失を容認することができないのであるから、被告の久夫に対する診療行為に過失があつたことを前提に、久夫の相続人である原告らが損害の賠償を求める本訴請求は、その余の主張について判断するまでもなく理由がないのでいずれもこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(石垣光雄 安間喜夫 片桐春一)

計算書〈省略〉

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